19世紀末という時代 「まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。・・・(中略)・・・上って行く坂の上の青い天に、もし一朶の白い雲が輝いているとすれば、それのみを見つめて、坂を上っていくであろう。」
ドラマ「坂の上の雲」は、渡辺謙の印象的なナレーションで幕を開けます。日本人としては「明治維新のあと、欧米に追いつこうと日本は頑張ったなぁ・・あの頃の日本人は偉かったなぁ・・」とじーんとくるわけですが、こうして違う角度から歴史を見ていると、どうもこの時期、坂の上の雲をめざしてオプティミズム満載で坂を登っていたのは、日本だけじゃなかったのでは、と思えてきます。
日清戦争は1894年、日露戦争は1904年ですから、ドラマの舞台は、ちょうどエジソンやベルが次々と発明をし、南カリフォルニアで石油が次々と発見される時期にあたります。日本よりはかなり先にいっていたとはいえ、アメリカも南北戦争で数多の国民を失い、南北対立の傷を負った後でしたし、欧州列強から見ればアメリカはまだまだ、ナポレオンが「いらんわー!」と思っちゃったぐらいの未開で野蛮な国でありました。そこへ、電気や石油という新しいテクノロジーの波がやってきて、オプティミズム満載ではっちゃけて、厨二病を発症したのでした。
ドイツでは、1871年に統一帝国が成立したあと、1879年にジーメンスが電車を発明、1882年にコッホが結核菌を発見、1883年と89年にダイムラーがガソリン機関と自動車を発明、1895年にレントゲンがX線を発見、というぐあいに、これも怒涛の勢いで技術が発展していきます。フランスでも1881年パストゥールが狂犬病菌を発見、1889年エッフェル塔建設、1898年キュリー夫妻がラジウムを発見、この頃にパリでは地下鉄ができています。イタリアではマルコーニが1893年に無線電信を発明しています。
新技術に対する姿勢
要するに、この時期は世界的に技術が爆発的に進歩する、歴史上の特異期にあたっていたと思います。黄金期であったはずのイギリスは、過去に成功した仕組みが足かせになり、例えばアメリカで出現した新しい造船技術をイギリスの熟練工が嫌って取り入れるのが遅れた、といった具合に、多くの産業で新技術への対応が遅れ、そのためにプロセス改善が行われなくなり、ずるずると沈んでいきます。(この時期のイギリス産業衰退の事例は、今の日本の参考になりそうな点が多くありそうです。造船技術を「IT」に置き換えてみてください。)
当時の日本では、新しい技術を取り入れて不利益を被る既得権益をもつ人達があっても、「そうしないと欧米列強にやられてしまう」という危機感が国民的合意だったので、既得権益を踏み潰して進むのが当たり前の時代でした。「坂の上の雲」のドラマで、私が一番印象に残った場面はなんといっても、悲惨な二百三高地攻防戦のあと、工兵が二人がかりでケーブルを巻いた大きなリールを持ち、電話線を延ばしながら真っ先に頂上に向かって走り登っていくところです。((;_;)カンドウ←元NTT社員なもので)日本軍はもう、電話を使っていました。また、日本海海戦で秋山真之が発した「天気晴朗なれど波高し」のメッセージは、無線電信で伝えられました。
日本は、おそらくまだ高価だった新技術を、戦争に負けないために必死に取り入れていたのです。そして、この爆発期の波にうまく乗れたということが、この後の日本の運命に大きく寄与していると思います。「この時期に、日本は明治維新をやって成功したが、中国はタイミングを逃した」というのは、そういう意味なのです。
そして、特にアメリカとドイツという「4G経済同期生」たちは、それぞれに坂の上の雲を目指してがんがん坂を上っていたのでした。
一番高い坂に最初に登りついたのはアメリカでした。1894年に工業生産力で世界一になり、1898年の米西戦争ではスペインの「2G経済」のライフがついにゼロとなる最後の「棺桶のふたに釘」を打ち、世界トップの国となります。
<続く>
出典: C.P.キンドルバーガー「経済大国興亡史」、山川世界史総合図録、山川日本史総合図録、司馬遼太郎「坂の上の雲」